計画経済とステート・アマチュア
ISSに滞在する正式クルーは政府間協定締結国に限られている(滞在権について各国・機関毎に枠がある)が、参加国・機関が別途民間人と商業契約を結び、自国枠を提供しISSに滞在させる宇宙飛行関係者という区分があり、これまでロシアのみが商業契約を結び、民間人を滞在させている。これまでに商業契約を結んでISSに滞在した者は、自費で費用を支弁したデニス・チトー、マーク・シャトルワース、グレゴリー・オルセン、アニューシャ・アンサリ、チャールズ・シモニー、リチャード・ギャリオット、ギー・ラリベルテの宇宙旅行者7人と、ロシアとの国家間協定に基づき宇宙に行ったマレーシアのシェイク・ムザファ・シュコア、国家が商用旅行の権利を購入したことにより宇宙へ行った韓国のイ・ソヨンの2人、計9名である。ISSの建設は50以上の組立部品及び作業のための打ち上げが要求される。それらの打ち上げの39回はスペースシャトルによる打ち上げである。組立部品及び作業のための打ち上げに加え、おおよそ40回のプログレス補給船による打ち上げが補給のために必要とされる。組立が完了した時点のISS は、体積1、200立方メートル、重量419トン、最大発生電力110キロワット、トラス(横方向)の長さ108.4メートル、進行方向の長さ74メートル、最大滞在人数6名となる予定である。ステーションはいくつかのモジュール及び要素で構成される。
IBM AP-101コンピュータは、元々1台あたり約424KBの磁気コアメモリを持ち、CPUは毎秒40万回の計算を行うことができた。ハードディスクはなく、ソフトは磁気テープカートリッジからロードした。1990年に、AP-101は、AP-101Sという上位機種に更新された。記憶容量は2.5倍の約1MBに、演算速度は3倍(毎秒120万回)に向上され、さらに、記憶装置は磁気コアメモリから電池バックアップ付きの半導体メモリに変更された。シャトルの機体に使用されている文字の書体はヘルヴェティカ(Helvetica)である。操縦席の窓と貨物室のドアの間には、軌道船の名前が記されている。貨物室ドア後部の下にはNASAの標章と、「United States」の文字および星条旗が描かれている。また右翼にも、もう1つ星条旗が描かれている。シャトルは外見上は設計当時の形状をほぼ残しているが、内部の航法コンピューターには大幅な改良が加えられている。またコンピューターの性能向上にともない、操縦席の計器板は元のアナログ式のメーターから、現在のエアバスA380やボーイング777などで使用されているようなフルカラーの液晶表示板に改められた。プログラム用の計算機も同様である(原型はHP-42C)。さらに国際宇宙ステーション(ISS)の登場に合わせ、ISSへの物資の供給をする際に貨物室により多くの荷物を積載できるよう、エアロックはミッドデッキ内から貨物室の外部エアロックに変更され、外部エアロック上部にはISSとのドッキング機構が装備された。
ジョン・F・ケネディの副大統領、リンドン・ジョンソンはこれらのアメリカの政策努力のための動機をこう表現した。ソ連のスプートニク成功に落ち込み、恐怖におびえたアメリカの大衆は、次第にアメリカの宇宙開発計画に重大な関心を示すようになった。児童や学生はロケット打ち上げが続くのを見守り、ロケットの模型作りは人気のある娯楽になり、テレビ番組やファッション、デザイン、ロードサイドの広告看板などにもロケットブームや宇宙ブームが波及した。1960年代には「スペースエイジ」を反映した銀色のメタリックな商品やデザインが席巻した。一方巨額の宇宙開発を不安視する声も起こったが、ケネディ大統領は国民を勇気付けるため、「宇宙開発を国として支援し、数百万ドルから数千万ドルの巨費を既存兵器の増産や貧困対策に充てた方がいいのではないか、という全米に広がる懐疑論に対し勝利するつもりだ」と演説した。スプートニク1号の打ち上げから4ヶ月後、1958年、アメリカは陸軍弾道ミサイル局により最初の人工衛星、エクスプローラー1号を打ち上げた。しかし同じころ、フロリダ半島のケープカナベラル空軍基地ではヴァンガードなど、相次ぐロケット打ち上げの失敗という深刻な事態が起こっていた。
但し、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。この細胞 (政党)を張り巡らせる民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ(器官の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。